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【リアルタイムボイス】建築な日々覚え書き(代表者建物コラム抜粋再掲載)
代表者ブログから、主に宮光園(甲州市 近代化産業遺産)保存修復工事に関わる「こぼれ話」を紹介しています。保存修復工事を終えた宮光園は2020年に史跡指定資料の調査を行い、「日本ワイン140年史〜国産ブドウで醸造する和文化の結晶」のビジターセンターとして活用されています(一般公開中)。




 大地に還る家 (2009.02.26)

今日の一枚は宮光園。大地に還りつつある東三番蔵。
宮光園の保存修復工事が始まった。初めて無人状態の建物を見たのが17年前だった。
平成4年。西暦だと何年だろう?1992年かな。ややこしいな。

2006年に基本調査をして、2007年に保存修復のための実施設計をした。2008年は文化財の指定を受けて、構造計算適合性判定も受けて、建築審査会も受けた。

そんなんでやっと着工だが、この間に傷みはどんどん進み、主屋周辺の蔵やら小屋はどんどん崩れ始めている。とりあえずというかやっとというか、今月からは主屋の修理を始めて来年の3月には完成の予定だ。
それにしても随分年月が経ったなあ。この蔵の柱は木から土に戻りかけているけど……。
以前、「大地に還る家」というコンペがあった。こいつなら入賞するかな。
昔々、セビリヤのヒラルダの塔を見に行った。その塔は建設に200年かかったと聞いた。なんて気の長い人たちなんだろうと思ったけど、もしかすると問題は別の所にあったのかも知れない。
費用とか、建設の事情やら戦争などによる中断とか。200年もやってれば当初の目標も忘れてしまう。最初の設計者だって死んでしまう。設計変更を繰り返していったら、いつの間にかこんな塔が出来ていたとか。

下の写真はレンガ煙突。工事車両が進入する際の振動による崩壊を防ぐ為に足場を組んで補強する。





 宮光園(改修前) (2008.10.10)

木曜日の朝ワインのことを書いたせいか、夕方ワインに縁があった。
テレビの撮影があるのでエキストラで出てくれと依頼があった。何の話かというと、日本の近代化遺産を紹介する番組があって、勝沼の古いワイナリーが紹介されるという。 その番組のワンシーンを勝沼の「葡萄の丘レストラン」で撮影する。その際に、客の一人として食事やワインを飲んでいれば良いとのことだった。相棒と事務所のM君、Yさんの4人で参加した。美味しいワインだったので、つい飲みすぎて夕べのブログはお休みしてしまった。
番組は「内山理名が往く 歴史ロマン産業街道」のタイトルで放送される。

ちなみにこの番組で紹介される古いワイナリーが今日の一枚です。昨日の土屋龍憲氏の後輩である宮崎光太郎氏の設立した会社で宮崎醸造所、通称は「宮光園」という。
建物はその主屋で明治29年頃建てられた民家を昭和の始めに現在見られるような洋館に改造したもの。私たちの事務所で調査と修復設計を行い、これから修理工事に入る。完成後は一般公開される予定。

下の写真は同じ宮光園の敷地内に残る地下セラー。修復設計の調査時に撮影した。
昨日の「龍憲セラー」がレンガで造られているのに対して、こちらは御影石を積んで出来ている。
「龍憲セラー」と同じ頃、場合によってはもっと古く作られたのではないかといわれている。





 歳月人を待たず (2009.02.26)

今日の一枚は宮光園の屋根。ケラバという部分で、石みたいに見えるけど、左官仕事で洗い出し仕上げという。

ガルシアマルケスの小説に「ママ・グランデの葬儀」というのがあった。家にあるはずだが本が見つからない。遠い昔のことだから記憶が違っているかもしれないけれど、こんな話だったと思う。
ママ・グランデが死んで、葬式を出さなければならない。ママ・グランデは多分神様みたいなものだろう。だから普通の葬式というわけには行かない。
葬儀の方法やら時期やらで、様々な立場や思惑の人たちの意見が食い違い対立する。答えは出せず、いたずらに時は過ぎてママ・グランデの体は**って行くばかり。

さて、今度修理の始まった宮光園の主屋は木造建築だ。昔の建物なので、今の基準と異なる構造になっている。
そこで木造建築で有名な構造事務所に構造計算を依頼した。でも県の指導課はもっと権威のある人に見てもらえという。権威の人に見て頂くのに5ヶ月かかった。当たり前だが問題ないとの結論が出た。その間修理は出来ず、建物は夏を過ごした。一番木が腐る季節に雨に晒される。そうして益々傷んでしまった訳だ。ママ・グランデの話の最後はどうなったかな。

下の写真は屋根の一番高い所。棟瓦。瓦屋に「瓦の様子を見てくれ」といったらスルスルと天辺まで登っていった。恐る恐る後を追いかけて登ってみた。「せっかくだから」と記念に撮った1枚。





 さざれ石 (2009.03.23)

今日の一枚は「さざれ石」。
勝沼は宮光園の庭にある。風化が進みあちこちボロボロ崩れ落ちている。最初見たときはコンクリート製の鉢なのかと思った。考古学者にして文化財の研究者であるM氏の説明によればこれは「さざれ石」だとのこと。 実在することも驚きだが、早く保存のための処置を施さないと「いわおとなりて」どころか砂と小石に分解してしまうと思うのだが、予算が無いのであと2,3年はこのままにしておかなければならない。「千代に八千代に」とは言ったものだ。さすがにさざれ石は気が長い。
こんな文章がある。

『天が下のすべてのことには季節があり、すべてのわざには時がある。生きるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、抜くに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、悲しむに時があり………(藤田省三小論集)』。

家の近くにある辛夷の花が満開になった。いつもより早いような気がする。
「写真を撮ろうか、でも今日は時間がなあ」と愚図愚図するうちに散り始めてしまった。既に桜も咲き始めている。4月にならないと花見の気分にもならないし、時間も取れないが、先方はこちらの都合はお構いなし。
どんどん咲いて、さっさと散ってゆく。
フト見るとスモモの花も満開だった。

そんな訳で下の写真はスモモ畑の風景。





 唐珍木 (2009.03.24)

今日の写真は唐珍木。

これは切り倒した後の断面。見た目は随分太いが年輪を数えた現場監督の話によれば樹齢27、8年といったところらしい。
唐珍木という名前の由来も何処から来たのかも謎だ。
最初は「唐変木」を聞き間違えたのかと思った。とりあえずこの辺りでは唐珍木と呼ばれているんだそうな。
「唐」が付く位だから、どこか外国から運び込んだものかも知れないという。いつの間にか芽を出して、こんなに大きくなった。家の近くに大きく育つ常緑樹を生えると、日が当たらず中は暗いし、葉は樋に詰まるし、屋根にも積もって雨漏りの原因にもなる。
この建物も同じだった。
20年以上無人で剪定する人も居なかったから無理も無い。これまでは自由気ままに枝を伸ばすことが出来たが、今回の保存修理工事のために伐採することになった。

可哀想だが枝を採って挿し木してあるので、一応樹種は残る。
いずれ素性が判明するときが来るかもしれない。

下の写真は木を切り倒した後の宮光園主屋の外観。





 タフな素材 (2009.03.30)

今日の一枚。古い新聞です。昭和11年2月15日の読売新聞。保存修理工事を始めた宮光園の外壁に貼ってあった。建物の中にある荷物を運び出し、後年の増築部分を撤去すると、こんなものが出てきた。というより、以前からあったのだけど光が射さない暗い場所だったので注意を引かなかった、というべきか。暗くて直射日光も射さなかったから文字も残ったんだろう。
記事の内容は「昭和10年度の予算が、紆余曲折の内に成立した」といった話。今も昔も国民そっちのけで揉めるのが政治家の仕事らしい。
ちなみにこの11日後に226事件が起きている。

下の写真は解体に先立ち、敷地内を片付けた際に草むらの中から出てきた瓦。
江戸時代のものも含めて明治・大正・昭和と様々な時代のものが入り乱れているようだ。表面は風化しているが、芯はしっかりしている。この中から使えるものをより分けて再利用する。
周知の通り瓦は衝撃で割れやすいが、元来が土を焼き固めたものだ。土は安定した物質だ。腐ることも錆びることも無い。大きな衝撃が無ければ何年でも残って、消えてなくなることは無い。
中国辺りでは秦・漢の時代の瓦が出土するという。紀元前、始皇帝の時代だ。
考えようによってはタフな素材であるということになる。

ちなみに川や沼の底から取ったような泥を使って、低い温度でじっくり焼いて作られるのが長持ちする瓦なんだそうだ。古い瓦はそうやって作られた。最近の瓦は高温でサッサカ、サッサカ、焼くので早く大量に出来るが、寿命は短いらしい。





 雑草、岩を割る。 (2009.03.31)

柔らかな草の根だからといって侮ることは出来ない。今日の一枚は岩から生えた草。石割れ草というらしい……。

これも現在保存修理工事中の宮光園の庭で見つけた。3月23日紹介のさざれ石のすぐ近くに転がっていた。 この石も日本庭園の庭石だから、文化財の一部なんだろう。こうやって少しずつひび割れを押し広げて行き、最後は2つにパカッと割る訳だ。
文化財なんだからこのままじゃ不味いんじゃないのかな。しかし、草が石を割る、その瞬間も見てみたい気がする。

下の写真は宮光園の主屋の2階。解体の前には、こうやって修理前の記録をとっておく。
ご覧のように、部屋の中央に大黒柱が1本あるきりで、中はガランドウだ。しかも天井がめちゃくちゃ高い。トップヘビイな上に窓ばっかりで壁もない。つまり耐震要素がほとんど無い。今の感覚で普通に考えると「地震に強い家」とはいえない。

こういう建物に必要なのは技術でも理屈でも無く、実現したいという思いと気迫だと思う。
このめちゃくちゃなことを実行した人はきっと魅力的な人だったんだろう。
巷には「失敗しないための家造り」みたいな本がたくさんある。優等生のノウハウが満載だ。片っ端から実践すれば、無難な建てものなら実現可能かもしれない。

しかし、それだけでは未来に残る建築は生まれない。





 鞍馬天狗の肖像 (2009.04.01)

今日の一枚は仲良く並んで不時着した、アダムスキー型円盤なら面白かったんだけど、これは誰が見てもお釜。宮光園は日本における初期のワイナリーだが、ワイン醸造を始める前は日本酒を作っていた。お酒を造るためなのか、大勢の使用人のためなのか、観光客にお弁当を出していたのか、実際の所は不明ではあるが、こんなデカイ釜でご飯を炊いていたらしい。

確か、祖母の実家の話だったと思うけど、その家は郡内地域の山林地主だった。山林では時として山火事が起きる。火事の知らせを受けると、先ずは竈に火を入れて、このような大釜でご飯を炊くのだそうな。暫くすると火事の応対に大勢集まってくる。その人たちに食事を出すのが目的なんだという。今のようにヘリコプターなど無い時代は人海戦術が唯一の消火手段だったのだろう。火を消す人を集めるために、火を起こす訳だ。火をもって、火を制す。
さて、この釜は文化財なのか、そうじゃないのか、どちらなんだろう。うかつに扱えない。とりあえずこうやって他の廃棄物と区別して、保管する。

下の写真は戦前に描かれた鞍馬天狗の壁画。

貴重な壁なら保管することもあるが、子供の落書きみたいなもので、資料的価値は少ない。市の方針では、こちらは解体処分するとのこと。ちょっと淋しい。
それならと、記念に撮影しておいた。





 最後のマッチ (2009.04.06)

今日の一枚はマッチの箱。甲斐産商店大黒葡萄酒とかいてある。宮光園の長押の裏から出てきた。
この家には古いものが良く残されている。ワインのラベル・ワイン・ブランデー・葡萄ジュース・新聞・出納帳・写真・葡萄の収穫が写された古い映画フィルム・最古の葡萄冷蔵庫等などがこれまで大量に出てきた。
このマッチ箱は解体中の職人が見つけ、監督に渡した。「こういうマッチ箱も重要なものなのかな」と思い、教育委員会のM氏に見せた所、大正時代の観光客にお土産に渡していたもので、このワイナリーの創業時代の商号が記されている貴重なマッチで、後にも先にも唯一残されたものなのだということが判明した。
存在すら今まで知られていなかったという、大発見だったらしい。解体のやりかた次第では発見できなかったかもしれない。危うく貴重な歴史資料が人知れず消え去る所だった。

下の写真は同じマッチの裏側のラベル。
マッチ箱は紙ではなく、薄くスライスした木の板で出来ている。こちらはワインではなく葡萄ジュースの宣伝をしている。
同時に古い鯨尺も出てきた。どうやらこの裏には墨でうっすら文字が書いてある。古い墨書きは水に濡らすと文字が浮き上がって読むことが出来る。
M氏曰く、「葡稜萄源郷」と書いてあるのだそうな。桃源郷と書くのが普通だが、あえて葡萄の文字を混ぜ込んである。ちなみに宮光園はワイン醸造だけでなく、早い時期から観光葡萄園を営んでいた。とことん葡萄でがんばっていた訳だ。





 燐寸と書いて何故かマッチと読むのだ (2009.04.07)

宮光園からはもう1つ違うマッチ箱が出てきた。
こちらは大日本東京でしかも世界一印ときた。製造元は「木本工場」と書いてあった。こういった命名はちょっと気恥ずかしくてなかなか真似ができない。
大きく出ちゃって、昔の人は平気だったんだろうか。気迫が違うのかもしれないな。
それにしても「燐寸」をどうして「マッチ」と読めるんだろう。

さて、隣の家にはこんな木が生えている。欅だ。

工事に着手する前はこの木の回りには雑木やら枯れ草や降り積もった落ち葉、古い瓦に瓦礫、それに崩れ落ちた建物の一部なんかが、積み重なり、まとわり付いていた。注意して歩かなければ足元を取られるので、幹の太さを意識するどころでは無かった。工事に先立ち、周りを片付けてあらためて眺めると実に太い。幹の直径も90センチはありそうだ。樹齢200年とか、もしかして300年位なんだろうか。

隣町の一宮町にある観光葡萄園の庭にも大きな欅が生えている。高速道路を勝沼で降りて、甲府方面に向かうと、右側に背の高い欅の木が民家を押しのけるようにして立っているのが見える。
そのせいか店の名前を「欅園」と名乗っている。転んでもただでは起きないということか。
ちなみに隣に建つこちらの家も、かつては葡萄園を営んでいた。
こちらの欅のほうが大きい。だからか「大欅園」と名乗っている。

負けちゃいられないという訳だ。





 御幣土 (2009.04.08)

以前言葉が世界を切断する話を書いた。

カナダエスキモーの世界では同じ雪でも「降ったばかりの雪」「降って暫く経った雪」「溶け始めた雪」「溶けかかって、また凍った雪」などの単語がそれぞれあるという。この話は遥か昔に読んだ『カナダエスキモー』という本に書いてあったんだけど、もしかすると雪ではなくて氷の話だったかもしれない。 本を読み直して内容を確認している時間が無いので、信憑性にはまったく自信が無い。申し訳ない。興味のある方は読んでみてくださいね。
一見同じように白く見える雪でも、その違いが生存条件を左右する世界では、こんな具合に細かく雪の状態を言葉で切り分ける訳だ。

さて、今日の一枚は土壁。宮光園の解体工事は足場を掛け、建具を外し、漆喰を落とし始めた。土壁は創建時の造り方を尊重する。長い年月の間に補修・改造が行われ、どれが当初のものか判別が難しい。あっちやこっちや調査しながらオリジナルの壁を探すのだ。そうやって見て行くと、エスキモーじゃないけど、我々も壁の違いが判別できるようになる。
古い壁・新しい壁・硬い壁・柔らかい壁・土の色・砂の色・藁の長さや、ひび割れの状態等々。おそらくこの写真の壁が創建当初からの壁だったと思われる。
これは土壁の状態で解体して保管し、サンプルとすることになる。

下の写真は保管の為に切り取る範囲を確認している所。
20年前も同じような仕事で一緒だった解体屋のおっちゃんが切り取る係りだ。
おっちゃん曰く、貫の部分を中心に上下に切り取るのが良いとのこと。なぜかと聞くと、貫が骨になって壁が崩れないからだという。
なるほど御幣餅みたいなものだな。





 浴室歴史探訪 (2009.04.13)

今日の一枚は「寒水」というもの。今も解体調査が続いている宮光園の、今日はお風呂場で発見された。
この家には明治27年に描かれた家相図が残っていた。それによればここのお風呂場は遥か昔はカマドのある部屋だった。

新しい(とはいっても20年は昔の)仕上げを撤去したら、先ず最初に黒い石みたいな仕上げが出てきた。何だか良く解からないが一部剥がして洗ってみたら、写真のような仕上げであることが判った。「こりゃ何だろう」とベテランの現場所長に尋ねると、「これはカンスイ」ではないかとのこと。
カンスイ?ラーメンの麺みたいだな。

事務所に戻りインターネットで調べたら、こちらは左官材料の一種で白色石灰岩の別名だそうな。モルタルに寒水を混ぜて塗り、モルタルが固まる直前に水を流して、表面のセメントを流すとこんな感じに出来上がる。白い部分は判ったが、黒い部分はどうやったのか不明だ。
さて、調査を続けてゆくと、最初の風呂場の下に寒水仕上げの風呂場、そのまた下に風呂場、更に下からは家相図に記されたカマドの跡が出てきた。

下の写真はそんな発掘調査の写真です。 これは五右衛門風呂の痕跡。中央の黒ずんだレンガは風呂の焚き口に使われていた。
レンガは比較的近年のものだが、中には中央本線開通時のトンネルに使われていたものと同じ時代のものが混じっていた。





 豪徳寺の洋館 (2009.04.21)

駅を降りて、豪徳寺に向かって歩いていたらこんな家を見つけた。
建築年代は昭和の始めくらいだろうか。本来のコースから外れるが、見逃す手はない。チョット失礼して写真を撮った。
下見板張りの外壁・軒下の漆喰・木製上げ下げ窓を使った建物は貴重だ。初めての場所で思いがけずこういう建物に出くわすと、得をした気持ちになる。

建物はだいぶ古くなってペンキも剥げかかっている。建替えるとすれば、住宅密集地だから防火構造が必要となるだろう。そうなると木製の外壁を再現することは難しい。木製の上げ下げ窓も作るのは大変だ。

つまり一度壊してしまったら二度と再現は出来ない建物だ。
余計なことかもしれないが、地域の大切な文化遺産としてこのまま残して欲しいと思う。
さて、下の写真は現在修理中の宮光園の荒板。
床下を補強するために畳の下の荒板を取り除き、柱同士を鉄骨のレールで繋ぎ合わせて建物をジャッキアップする。これはその準備を行っている段階。文化財なので修理中に一端取り除いた板は再び元の場所に戻さなければならない。どこにあった板なのか記録しておかなければならない。その為にこうやって番付をしておく。





 パテ (2009.04.27)

食べ物だったら良かったけれど、こちらは建材の話。

上の写真でガラスを留めている白いものは「パテ」。なのだとずっと思っていた。
宮光園で建具修理の相談に乗ってもらった若い親方の見立てによれば、これは漆喰なのだそうだ。そういえばパテのような弾力性が無いし、ポロポロ崩れるさまは確かに漆喰に似ている。弾力性が無いのは風化したのが原因だと思い込んでいた。

建設当時の山梨県の条件を考えてみればパテよりも漆喰の方が身近で大量にあって、しかも職人がいたので施工性もよかっただろう。
漆喰は屋根瓦を止めるのにも使われるのだから当然窓にだって使ったわけだ。

さて、手元の資料によれば、明治時代に建てられた洋館建築の窓ガラスはこんな風に「パテ」で止められているが、時代が下るに従い木製の細い材で押さえるように変化している。
実は「パテ」だけでガラスを止めるのは心もとない。よくよく見ると、下の写真に見られるような薄い三角形の金属片を埋め込んでガラスを止めていた。 見えないところで、なかなか繊細な仕事を施している。

ちなみに、木枠の下の段で使われているのはおなじみの結霜ガラス。
このガラスの製造年代と、建築の推定される工事年代(大正時代の後半から昭和の初期頃)とはほぼ一致する。





 謎の地下室 (2009.04.29)

民家の保存修復設計では床下の調査も行う。
床下は暗く、懐中電灯や投光機が必要だ。しかも低いので、腹ばいになったり、ヒンズースクワットのようにしゃがんだままチョコチョコ歩かなければならない。日ごろの運動不足がたたり、太ももが痛くなる。

さて、宮光園の床下にはこんな地下室(ムロ)があった(今日の一枚)。2年前に保存修理のための実測調査をした際に発見した。
この地域の民家は土間を入って最初にある板の間の一部をはがして、収納に使う例がある。同じような場所にある蓋を取ってみたら、人が入れるような室があった。

防空壕・野菜庫・何か大事なものの隠し場所など様々な推測が行われた。
黎明期のワイナリーなので地下セラーなのかもしれないといった説もあるが、記録も無ければ、記憶のある関係者もいない。結局何時の時代にどんな目的で造られたのか、創建時から存在したのか、後世の仕事なのかサッパリ判らないままだった。
当初の計画では元通りに床板を張って「地下室なんて知らないよ」という感じにする予定だった。日本は木造建築の国といった印象があるが、こうやって見ると石積みの技術もかなり使われていたのだ。こうして白日の下に晒すと、きれいに積まれているし、なかなか面白い。
公開時には、床板の一部を開口にして石室が見えるように変更することになった。







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